世界遺産 熊野古道

熊野古道に救いを求めて…

熊野路は、浄土への道であった。熊野の神々にあこがれた人々が、たぎる信仰を胸に、山を越え、海ぞいを歩いた。それは皇族から庶民まで、中世から近代にかけて果てしなく続いた「蟻の熊野詣」であった。
この熊野路の名を高めたものは、平安の中ごろから鎌倉後半にかけての熊野御幸だった。延喜7年宇多法 皇から弘安4年亀山上皇まで実に374年間にわたり、100回以上の御幸であったといわれている。
早朝京都を出発まず淀川を船で大阪府下に下る。それから陸路南に向かい田辺、中辺路をたどって熊野本 宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。往復の日数は20日から1カ月。一行の人 数は最大で814人、最小の時で49人、平均300人前後にのぼったといわれている。上皇、法皇は白ずくめの服 装に杖という山伏に近い姿、道筋の名所に「熊野九十九王子社」と総称される休憩所がもうけられ、そのう ち中辺路町内には滝尻王子より道湯川王子まで 13 王子を数える。

■滝尻王子
熊野九十九王子のうちで最も重要視された王子の一つで、社格の高い五体王子であった。川の合流点にあたり、古道は背後の剣山へ登るが、ここが熊野の霊域の入り口とされていた。参詣者は川でみそぎをし、社前で経供養や里神楽が行われ、後鳥羽上皇は和歌会を開いた。正治2年(1200年)の際の熊野懐紙11葉は分散して現存する。神宝の黒漆小太刀は国指定の重要文化財。

 

■不寝王子
滝尻王子から背後の剣山の坂道を400メートルほど登ったところに、不寝(ネズ)王子の跡だとされる場所がある。秀衡伝説で知られる乳岩の少し上方にあたる。不寝王子の名称は古い記録に見えず、九十九王子のうちに入ることもないが、元禄年間の「紀南郷導記」に、ネジ王子という小社の跡があると記されている。

 

■高原熊野神社
高原地区の氏神で、高原王子と言われることもあった。神社に伝わる懸仏(かけぼとけ)の裏面には、応永10年(1403)と明記して、若王子(にゃくおうじ)を熊野から歓請したことがしるされている。社殿は春日造りで、室町時代の様式を伝え、熊野街道では最も古い神社建造物である(県指定文化財)。境内にはクスノキの大木がある。

 

■大門王子

ここは山中の要地で、大きな鳥居があったとみられるし、いまも新社殿の奥に、大門王子の碑と並んで、鎌倉時代のものとされる石造の笠塔婆がある。平安時代からの休息地「水飲」もこの付近であった。ただ、大門王子の名は古い参詣記などには見えず、設置の新しい王子であり、一方、江戸中期にはすでに社がなく、緑泥片岩の碑が建てられた。

 

■十丈王子
十丈峠の杉林のなかに王子跡がある。江戸時代には付近に数戸の家があり、氏神として祀られていたが、明治末期の神社合祀で廃社になった。いまは十丈は無人の山中になっている。ここの地名は中右記に重點とあり、後鳥羽院御幸記など中世の参詣記でも、王子名がやはり重點となっている。これが近世以降は十丈とかわるが、そのいきさつは分からない。

 

■大坂本王子
逢坂峠の東側のふもと坂尻の谷のそばに王子跡がある。いまは杉林の中である。明治以降峠の坂道が少し変わったため、峠からは多少回り道になった。王子跡には石造の笠塔婆がみられる。後鳥羽院御幸記に、大坂本王子に参るとある。逢坂峠は古くは大坂といわれ、為房喞の永保元年(1081)の参詣記では、深夜大坂の草庵で猿の鳴き声を聞いている。

 

■近露王子
最も早く現れた王子の一つで、鎌倉末期の熊野縁起では准五体王子にあがっている。参詣者は古くから川でみそぎをするのが習いであった。後鳥羽上皇はここでも和歌会を催している。境内に杉の巨木があったが、明治末期の神社合祀で社殿は取りこわされ、古木は伐り払われて、いまは近露王子之跡と刻んだ自然石の碑が見られる。院政期の御所は川を隔てた対岸の方にあった。


 

■比曽原王子
車道わきの山の斜面、杉の木のもとに緑泥片岩の比曽原王子の碑がある。これは江戸中期にすでに社殿がなかったため建てられたものである。王子名は後鳥羽院御幸記ではヒソ原、鎌倉末期の熊野縁起では比曽原で現在の地名と一致する。江戸時代には近くに手枕の松という名木があって、文人たちの注意を引いたようである。

 

■継桜王子
野中地区の氏神でもある王子社で、社殿は石段の上の高所にある。境内の斜面に一方杉の巨木が10本ほど現存し、県指定の天然記念物である。王子名のもとになった名木の継桜が早くから社前にあり、それが秀衡桜と呼ばれて植えつがれ、今は東方約100メートルの所にあって、やはり名木である。王子の前の断崖の下に、日本名水百選の「野中の清水」がある。

 

■中川王子
高尾隧道口の少し東方車道の上方の山中に「中川王子」と刻んだ緑泥片岩の碑が見られる。かつては熊野参詣道がここを通っていた。比較的早く設けられた王子で、中右記に「仲野川王子に参る」とある。後鳥羽院御幸記でも「中の河」であるが、修明門院御幸記に「中川」と出ている。鎌倉中期の経俊喞記にも「中川に於いて一献を構える」とある。

 

■小広王子
車道の小広峠の道端に上部の折損した緑泥片岩の小広王子碑が建てられている。明治の道路改修以前は、もとの高い峠の上にあったものである。この王子名は中世の記録には見えない。

 

■熊瀬川王子
小広峠を下ってわらじ峠に上りにかかって間もなく、道の左側に熊瀬川王子の跡といわれる場所がある。鎌倉末期の熊野縁起に出ている熊背川王子はここかとみられるが小広峠とする説もある。

 

■岩神王子
わらじ峠を下って栃ノ川を渡り、険しい坂を上ったら岩神峠で、峠のすぐそばに王子跡がある。比較的早く設けられた王子で、中右記の天仁2年(1109)の参詣記で、藤原宗忠は夜の白むころこの王子に参り、社辺にいた盲人に食料を与えたと記している。江戸中期まで社殿があったが、その後草木に埋もれていた。近年ようやく、その所在が明らかになった。

 

■湯川王子
九十九王子のうち比較的格式の高い准五体王子で、道湯川の氏神として祀られてきた。しかし、明治末期に強引に近野神社に合祀され、更にこの地は昭和30年代から無人になったが、近年土地の出身者らによって小社殿が再建された。ここは参詣道の要地で院政期には上皇や貴族もしばしば宿泊や休憩をし、谷川でみそぎをおこなった。